野良猫とメンチカツ、春の海

4月5日 晴明

 

普段仕事ではほぼ事務所にこもっていますが、その日は役場に書類を届ける用事があって、仕事中に外出しました。

役場に申請して、書類が出来上がるのを待つ間、お昼休憩。

普段はなにがしかお弁当を持って行っていますが、外に出たのでコンビニでパンとメンチカツを買ってみる。

役場は海のすぐ近くで、道すがら海岸が見えました。引き込まれるように、足は海へ。

 

前方には黒いランドセルの小さな男の子とお母さんが歩いていました。入学式の帰り道。今年は桜が満開でよかったね。

 

 

海岸に腰掛け、パンを取り出すと、どこからともなく野良猫が近寄ってきました。悲しいかな、私はあまり動物に懐かれるタイプではないので、へえ、めずらしいこともあるものだ。猫に見つめられながらパンを食べる。

 

猫は私の隣に座り、じっとこちらを見つめる。視線が痛い。なんなんだ。

 

あ…お腹空いてるのかしら、と、パンのカケラをちぎって、目の前にやるが、見向きもしない。違うのかな?

しばらくパンを食べていて、ふと気がつく。これか、と、メンチカツを一口大にちぎりやってみると、がつがつ食べました。ああこれが狙いですか。匂いにひかれてきたのね。現金なやつめ、なんて、ちょっとふられた気分。

 

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信じられないくらい、あまりに青い。春の海。

 

 

 

物質はエネルギー 世界からの借り物

先日実家に立ち寄った際に、カレン・キングストンの『ガラクタを捨てると自分が見える』を見つけたので久しぶりに読んでいます。

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2月から3月にかけて、ずっと部屋の片付けをしていました。きっかけはNetflixで見たこんまりこと近藤 麻理恵さんの番組。そこから片付けに夢中になっています。

 

 

カレンのこの本はみれいさんの著書で知って、たぶん5、6年前くらいに読んだはずなのですが、内容に対する印象や感度がぜんぜん違います。受け取る側の状態によって、評価というものはまったく変わりますね。本は今「そうそう!」と付箋だらけになっています。

 

今回特に、これは、と思った部分を引用します。

「物質は世界からの借り物である」という話。 

 

人生は常に変化しています。ですから何か新しいものがあなたの人生に転がり込んできたなら、
それを満喫してうまく使い、そして時期が来たら手放しましょう。これは実にシンプルなことです。
何かを所有しているからといって、一生それを持っていなければならないということはありません。
人生にちょっとだけ立ち寄った多くのものと同じように、あなたはそれを一時的に所有しただけなのです。(中略)

 

物質的なものはすべて、単なるエネルギーの一時的な形でしかありません。
あなたは家を所有していて、銀行には貯金がたくさんあると思っているかもしれませんが、
実際にはあなた自身の体ですら自分のものではありません。

 
体はこの地球から一時的に借りているもので、用が済んだら自動的にリサイクルされ、
あなた無しで違うフォームを与えられるのです。
あなたは魂そのものです。崇高で永遠なる、破壊されることのない魂。
でも肉体は、一時的なもの。単なる「借りもの」というのが、一番正しいでしょう。

 

『物質的なものはすべて、単なるエネルギーの一時的な形』『体はこの地球から一時的に借りているもの』(本文では体の話になっていますが、物もそうですよね)というのを最近実感しています。

 

たとえば、我が家のテレビ台の下のひきだし。閉まっているので、以前も今も外観はほぼかわらないのですが、この中身を整理整頓した後から、外側からひきだしを見たときの印象も、なんだか、違うのです。この『物質はエネルギー』という部分を読んだときに、「そうか、エネルギーが整えられたから、感じる印象が変わったんだ」と合点がいきました。

 

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なにかを感じるアルパカ

 

物を捨てるとき手放すときも、「無駄にしてしまった、もったいない」と心が痛むこともあるのですが、「これは世界から借りていたもの。自分にはもう不要なエネルギーだから世界に循環させるんだ」と思うと気が楽になります。

(もちろん今後無駄に捨てたくないと反省もして、無用な買い物は控えるように心がけます。)

 

ちなみに私が多大な影響をうけた近藤麻理恵さん、彼女の物への視点や感じ方もカレンと近くて、こんまりさんの著書(特に2の方)の内容もスピってるというか。(心屋仁之助さんと交友もあるようですし)こちらもいずれご紹介します。

おひつじ座の新月 #わたしのアファメーション

✴︎わたしは世界に愛されています


✴︎わたしは世界を信頼しています


✴︎わたしは世界の愛をいっぱい受け取ります


✴︎わたしは安心してこの世界をめいっぱい楽しむために生まれてきました


✴︎そして存分に世界の美しさを受け取って生きてゆきます

 

 

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それは自分のすがた

わたしの周りの気になるひと

 

 

 

「この会社は」「この社会は」と自分の属する組織を仮想敵にするひと

人の意見をまったく聞きいれないひと

「自分が苦しい思いをしているのに人が助けてくれない」と不満をためて我慢するひと

機嫌で仕事をするひと

どうせ自分はと言いながら自分と周りの価値を下げるひと

調子のいいひと

 

 

 

 

 

それはもしかして

鏡にうつった自分のすがた

 

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春の妙本寺 海棠の花

春のこの時期に毎年行くことにしている場所があります。

そのひとつが、鎌倉妙本寺、海棠の花を見に行きます。

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駅から歩いて5分くらい、日蓮宗の本山のお寺。

 

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ここの海棠の花にまつわる

批評家の小林秀雄と詩人の中原中也のエピソードを知ってから毎年通っています。

 

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(詳しくは検索していただくと紹介している記事があるのでそちらを参照いただければと思いますが)

ごくかんたんに説明すると、

小林秀雄中原中也は友人だったのですが、小林が中也の恋人を略奪し、彼らの仲は決裂します。

しかし時が経ち小林がその恋人とも別れたのち、

彼らは妙本寺の海棠の前で和解をします。

 

晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。
花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。
樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。


あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひたらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。
驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。


花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は急に嫌な気持ちになって来た。我慢が出来なくなってきた。


その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。
私はハッとして立上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。

「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。
彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。

 

(小林秀雄中原中也の思い出』

 

海棠は楊貴妃が好きな花だったと聞きました。海棠は桜のすこし後くらいに、桜と同様ピンク色の花を咲かせます。どちらも美しいですが、 桜はどこか「霊的」「神秘的」に感じるのと比べると、海棠は色も濃く「艶めかしい」「蠱惑的」にも感じます。

 

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海棠の妖しい美に魅了され悶々と思考に飲み込まれている小林の感覚が、花びらが散るのを眺めているとわかる気がします。

かつての恋人、中也から奪ってしまった自分の行為、若気の至りだという言い訳と後悔が重なり思考が渦巻いて

花びらは延々と、舞っては落ち、舞っては落ち。

 

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そして、そういう小林を、「もういいよ」と雷のように打ち抜く中也。道化た笑顔をみせて。

中也のそういうところが小林は好きだったのだろうな。かなわなかったのだろうな。

このエピソードが好きで、毎年、海棠に会いに行っています。

 

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今年は花盛りのタイミングに行くことになり、みごとな花宴の下、花嫁花婿さんが何組も記念写真を撮っていました。祝福ムードに満ちて賑やかな春。

 

また来年。

朝の小さなマインドフルネス

静かに瞑想とか、コーヒー片手にモーニングノートとか
”穏やかな朝のひととき”が理想ですが、

実際のところ、せわしく準備をしてばたばたと家を飛び出す毎日です。

 

 

そんな朝の時間に小さいですが習慣にしていることが
ベッドメイキングです。

 

昔から片付けや整理整頓が、とにっかく苦手で

ベッドメイキングもどうしてもできなかったのですが

ようやく習慣としてできるようになりました。

 

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いぬが見ている

 

1分足らずの動作ですが
瞑想状態になる効果があるらしいです。

 


帰ってきてベッドが整っていると、気持ちがいいものですしね。

 

とはいえもう少し余裕のある朝時間を

過ごしたいものです…。

春風のような歌をポケットに入れて

食器を洗っていたら、ふいに「ブログを再開しようかな」と思い浮かびました。

すると、部屋で流していたradikoがぴたりと止まって、

「やるなら、いまでしょ」と言われた気がしたので、

家事の手をとめて書き始めています。

 

 

かといって初心表明みたいな文章を書くのも気分ではないので、

今日はいい天気ですし、

私が春によく鼻歌でふんふんと歌っている曲を紹介します。

 

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*「明日、春がきたら」松たか子


松たか子 - 明日、春が来たら

桜の花をみると、その下で足を止まり、

昔の思い出がぶわっと吹き出してきます。

そんなときにはこの曲を口ずさみながら、また歩き出します。

 

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*風を撃て キリンジ


風を撃て  キリンジ

春の曲ってわけでもないと思うのですが、

「風」のイメージが個人的には春~初夏なのです。

この曲を聴きながら、春の軽い空気の中をびゅんと自転車で駆け巡りたいです。

(「風」の曲が好きです。びゅーんという疾走感。射手座だから?)

 

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*春の歌 スピッツ


スピッツ / 春の歌

 

「どうでもいいとか そんな言葉で汚れた 心 今放て」という部分が

今の私にはぐっときました。

 

学生時代スピッツが大好きだった私はこの曲も大好きなのですが、

一方で、この曲が苦手だった昔の同級生を思い出します。

春の希望があふれている感じが、

彼女にはしんどかったのかもしれないなあ。元気かな。

 

 

 

今日はなにかなとめくったら、

思わず笑ってしまって、

さすがだなあと思いました。

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新年度とかあれとかそれとか、肩に力が入っちゃいますが

ぼちぼち行きましょう◎